私、踊れません

昨日英会話に行ったら、そこでの話題もいじめについてだった。


英会話の先生は家にテレビがないので、
「今週は何があった?」と私にいっつもその週のニュースを教えろと言ってくる。
まちがったこと言えないから、責任重大なのだ。


ほんで、いちばん大きいニュースとして、
文科省に届いた自殺予告の手紙の話をしたら、
昨日の英会話の話はもっぱらそれになった。
もう1人の生徒が高校の先生なので、よけいに議論が白熱した。


その先生の学校でもやはりいじめ(程度は軽いものらしいが)があり、
いじめた方といじめられた方の親を呼び出して話し合いをもったりしたらしい。
でもあまりうまくいかなかったとか。


いじめは誰に責任があるかということだけど、
小・中・高生であるかぎり、それはやっぱりいじめた方の親だと思う。
自分の子どもが日頃どのような生活をし、
どのような人格を有しているのか、
逐一追うことは難しいだろうが、できるかぎり把握するように努めるべきだ。
また、往々にして、親がこどもの行為を悪いものだと思わず
いっしょになって容認しているケースがある。


先日、母とエレベーターに乗っていたのだが、
そのエレベーターは非常に混雑していた。
そんな中、ある階に止まったところでぽっちゃりとした体型のおばさんが乗ってきた。
私には聞こえなかったのだが、母には
『なんだよ、乗ってくんなよデブ』
と言った子どもの声が聞こえたそうだ。
もちろん子どものそういった発言も問題だが、
それ以上に問題なのはそこで何も言わずほっておく親だ。
人を傷つけるような言葉を言った子どもに対して、
なんで『そんなこと言ったらいけない』
『言われた人のきもちを考えたことがあるか』
と厳しく諭せないのか。


子どもがいじめをしている家庭では、
親もそれを助長するような言動をしているのではないかという疑いがふくれあがる。


もちろん、小中高生といえど、
自分がしていることを悪いことだとわかっているのは確実だから、
その子たち自身にも問題がある。


学校でいじめを繰りかえす子には、家庭に問題がある子が多いというが、
だからっていじめをしていいかというとそんなことはない。
家庭に問題がある子なんて、この世の中ごまんといるのだ。
「私は家庭に問題があるからかわいそうなの」
なんてその状況を盾にしていじめをしていいはずがないのだ。



さて、いじめをなくすにはどうすればよいかという話にもなった。
イギリス人の先生からは、『いじめっこを退学にすればいい』というような
意見も出たが、それは教育者の逃げのような気がして賛成できない。


私は、まずいじめを確認したら、いじめっこにカウンセラーをつけ、
なるべくいじめっこがひとりになるような時間をつくるべきだと思う。
いじめっこは、集団じゃないと行動できない弱い人間だと思う。
もし彼らがひとりだったら、いじめなんてできるだろうか。
ひとりが怖いから、集団に属し、
自分の恐怖の対象である「孤独」に他の人をおとしめようとするのだ。


まず、ひとりになり、
そして自分の内側と向き合い、
静かな時間の中で自分と対話することが大事だと思う。
人間がひとりになったとき、もっとも頼みになるのは自分であり、
自分の考える力、イマジネーションである。
友達といっしょにいていろいろと話をするのは大事だが、
そうしている時間に、純粋に自分だけのスケールで(人に影響されることなく)
いろいろなことに思いをめぐらすのは難しいのだ。


コンピューターばかりやってるのもイマジネーションを失わせる一因だ。
本を読んだり、音楽を聴いたり、
目の前にそっくりそのままイメージがないような、
自分で解釈をしていかなければならないような娯楽を
ときには楽しむべきだ。




…とまあこんなことを英会話で話していたわけですね。


うちのお母さんも、今日の朝刊を見ながら
「マスコミが書いてるのは、こんないじめに関する描写とか
いじめられてる子に関する描写ばっかりだね」
と言っていた。
私が思っていることと同じなのでびっくりしたけど、
ちょっとうれしかった。
やっぱり、マスコミがスポットを当てるべきは
いじめている側の子ではないだろうか。
いじめている子の心情、
いじめている子の家庭の様子、
過去にいじめっこだった人たちの今の心境。


私は今そんなことをマスコミに取材してほしいと思う。
これを見てるマスコミの人なんていないと思うけど(^^;